現代っ子の心身の特性について

「現代っ子」という場合には、現在と昔とを比較してみるといちばんわかりわりやすいと思います。


そこには子ども自身のほかに子どもをめぐる社会、親、学校などの変化、またそれらのもののかかわり方の変貌などがくっきりと浮かびあがるからです。


子どもの精神衛生相談所が仙台市にあります。


この相談所は、今では廃止になりましたが、そのころの経験と現在の状況とは、ずいぶん変化したものだという印象とともに、子どもは結局同じではないかという感慨の双方を持っています。


「現代っ子の心身の特性」といっても、漠然と子どもを考えるのでは皆さんも興味がわかないと思いますので、われわれに現在のところ聞きなれた言葉になり、また身近な問題になっている、自閉症、学校拒否を中心にして、過去と現在を対比させて考えてみたいと思います。


次に幼い子どもを育てている母子の関係に焦点を当て、さらに親の子どもに対する願いとは何なのか、そして最後に教師としてどう対応すべぎなのか……という点について話したいと思います。

育児について 2

気持はもっともだとしても、忘れた子どもにはなんの罪もありません。


ともに自然の世界で歩いてきた見知らぬ友人とでも割り切って考えられないでしょうか。


「発達は人間中心であるよりも、ひとをつつみこんだ自然の世界を中心にして考えるべきである」


・・・という意味のことをゲゼルは言っています。


澄み切った発達研究の後にたどりついたこの偉大な先達の言葉のなかには、何かはっと心うたれるものがあると感ずるのはわたしひとりではないと思います。

育児について

とり返しのつかない育児法の失敗などありません。


隣りの若い夫婦とは異なった自分たちの生活があるはずです。


真似する必要はないし、また高望みには無理が伴います。


自分の子どもは彼なりに自分の生き方を持っています。


今の時、現在の遊びが大切です。


明日ばかりを見て、また他人の様子をみて背のびすることをやめ自分なりの生活をするなら、かならずいつの日にか、日常のささいなできごとを子どもはその心のなかに残して育っていくことでしょう。


このような点からみると健常児も障害児も変わりありません。


精薄児だから親を理解できないと思うなら、それは親が子どもに理解してもらいたいという願いを持ち過ぎるのではないでしょうか。


施設にあずけて次に行ってみたらすでに自分の顔を子どもは忘れていたといって親は悲しみます。

ヨーロッパの女性「ジャンヌ・ダルク」その4

シャルルは、ジャンヌへの恐怖心をぬぐい去り士気を高めるために、ジャンヌをあくまで異端として火刑に処す必要があった。

火刑には不思議な力を発揮す礪女をその霊力とともにこの世から消し去り、同時に異端者に与する者=シャルルの正統1生に対する攻撃の意味が込められていたのだ。

1431年5月30日、ジャンヌはルーアンの広場で火刑に処された。

正確な死因は窒息死である。

ジャンヌが絶命したところでいったん火は遠ざけられ、彼女がなんら奇蹟を行使することなく死んだことを観衆に確認させたうえで、ふたたび灰になるまで焼き、遺灰は「聖遺物」とならぬよう残らずセーヌ川に流された。

ヨーロッパの女性「ジャンヌ・ダルク」その3

シャルルは、ジャンヌになんら救いの手をさしのべようとすらしていませんでした。

結局、彼女は敵方のイングランドによって買い取られてしまうのだが、ではイングランドの狙いは何だったのか。

当初イングランド有利に展開していた百年戦争はジャンヌの出現とともに形勢が逆転。

イングランドとブルゴーニュ派は焦燥の色を濃くしていた。

だが起死回生の可能性を秘めた手段がないわけではない。

それはシャルルの王位正統性を否定すること、そしてジャンヌへの恐怖心をぬぐい去り士気を高めることだった。

ヨーロッパの女性「ジャンヌ・ダルク」その2

ジャンヌ・ダルクの名を知らない人はおそらくいないでしょう。

多くの映画やコミックの主人公にもなっているので、多少なりとも西洋史に関心のある人なら、彼女がどういう活躍をしてどういう最期を遂げたかはご存知だと思います。

しかし、なぜ火刑という無惨なやり方で殺されたかとなると、合点のいかない人が多いのではないでしょうか。

ジャンヌがイングランドと同盟関係にあるブルゴーニュ派の騎士に捕らわれたとき、本来ならシャルルが身代金を払って彼女を自由の身とするのが筋だったが、彼はそれをしなかった。

ヨーロッパの女性「ジャンヌ・ダルク」その1

フランス北東部、シャンパーニュ地方の中心都市ランス。

人口20万の小さな都市だが、フランス史を語るうえできわめて重要な場所の一つに数えられる。

なかでも街の中心にあるノートル・ダム大聖堂。

401年に創建されたこの聖堂では、歴代フランス王の戴冠式が行なわれた。

1429年7月17日、王太子シャルル(シャルル7世、在位1422~61年)の即位式典が同地で挙行されるが、このお膳立てをしたのが弱冠17歳の少女ジャンヌ・ダルクだった。

ヨーロッパの女性「クレオパトラ」その3

ローマの名だたる名将を相継いで骨抜きにしてしまったことから、ローマ人の彼女に対する評価には否定的なものが多い。

けれどもカエサルもアントいんとうふうニウスも、淫蕩の風の濃い当時のローマにあって名うての女たらし。

経験豊富なはずの2人がなぜいともたやすくクレオパトラのまえに全面降伏してしまったのだろうか。

1世紀ローマの思想家プルタルコスによれば、クレオパトラは男の心を深く捕らえて離さないほどの比類なき美女というわけではなかった。

だがその会話術たるやこのうえなくすばらしく「声音にはまた甘美さが漂い、その舌は多くの弦のある楽器のよう」だったという。

こうした才能がそこそこの美貌とたけ合わさって、猛き心をも溶かす強力な武器となったようだ。

ヨーロッパの女性「クレオパトラ」その2

当時ローマは地中海周辺をあまねく覆うほどの勢いをみせ、東地中海岸でローマの支配下に入っていないのはもはやエジプトのみという情況にあり、カエサルは政敵ポンペイウスをへいとん追跡がてら、残るエジプトを併呑してやろうという下心を抱いて乗り込んできたのだ。

ところが意に相違して、征服されたのはカエサルのほうだった。クレオパトラの魅力のまえに完全な虜と化してしまう。

彼女はカエサルの力を借りて弟王とその一派を倒し、同時にエジプトとプトレマイオス朝をローマの支配から守ることにも成功した。
このとき彼女21歳、カエサルは52歳、2人の間には1男カエサリオンがもうけられる。

カエサルが暗殺された後、今度は後継者として最有力視されていた将軍アントニウス(40歳)がクレオパトラ(28歳)の虜となり、2人の間では2男1女がもうけられた。

ヨーロッパの女性「クレオパトラ」その1

古代エジプト王朝の歴史は前3世紀のエジプトの神官マネトンが著わした『エジプト史』にもとづき31、あるいはこれにプトレマイオス朝を加え32の王朝に分けてとらえるのが主流となっている。

最後を飾るプトレマイオス朝はギリシア系の王朝、その最後の王となったのがクレオパトラ(7世。前69~前30年)だった。

前51年クレオパトラは弟プトレマイオス13世の共同統治者として即位したものの、弟王を擁して専権をふるう3人の元老と激しく対立。

双方軍勢を駆り集め睨み合いがつづくところへ、調停の名のもとに現われたのがローマの将軍カエサルだった。